2009年12月アーカイブ

本日をもちまして

2009年の「スーパーJチャンネルにいがた」

通常の放送は、終了いたしました。

今年も1年間 ありがとうございました。

 

 

うっち.jpg

※放送終了直後の 内山アナ。

 

今週1週間、

「新潟この1年」と題して、

今年を振り返ってまいりました・・・

 

◆北陸新幹線問題もありましたが、

◆大観光交流年の新潟には、たくさんの方が訪れました。

◆殺人や横領など、今年はお金にからんだ事件が目立ちました。

◆トキ2次放鳥、サル逃亡、アルパカ来る!など動物ネタもありましたね~

◆そして、スポーツ界では、文理ナイン、国体選手などなど

 たくさんのヒーロー、ヒロインが感動をプレゼントしてくれました!!

 

少数精鋭!みんなで駆け回って取材した

記者のみなさん、おつかれさまです。

カメラマンさんも、おつかれさまです。

来年も 報道チームがんばりますので

よろしくお願いいたします。

 

新年は、1月4日 スタートです!!

みなさま よいお年を~♪

 

馬うし.jpg

 

↑↑ 報道部のマスコット

  ごみ当番をお知らせする

 うまっち(? 突如命名)です!

 

 

新潟あの時ロゴ HP用.JPG新潟あの時そして今⑧

 

50年前の19591214日。

新潟港から出港した船を皆さんはご存知ですか?

この日から25年に渡り、

およそ190隻の船が北朝鮮に渡った「帰国事業」。

最初の3年間で7万人以上が、

25年間では約9万3000人の在日朝鮮人

(厳密にいうと在日韓国・朝鮮人・・「朝鮮籍」の人々で

故郷は現在の韓国という人が

80パーセント以上だったそうです)とその家族が

ここ新潟から海を渡りました。

その中には、日本人妻1800人を含む6700人の日本人が・・・。

当時は「日本国籍」と「朝鮮籍」の二重国籍のまま

「再入国不可」ということで

日赤が「帰国意思の最終確認」をして

送り出す事になっていたのですが・・。

その実は、原則30世帯ずつを

集落の取りまとめ役が勝手に申し込んでしまったりと

知らない間に申し込まれていた人も多かったようで、

最終意思確認も厳密には行なわれず、

日赤新潟センターに掲げられていた

「再入国は不可」というポスターは、

当時の写真などによるといつのまにか、

小さく書き換えられていたとか・・・。

この帰国事業について、

18年間取材を続けている朝日放送の石高健次記者にも

お話しを伺う事ができました。

石高さんによると、その9万人のうち2万人近くが

行方不明(安否がわからない状態)になっているといいます。

日本人妻たちは「3年たったら里帰りできる」という

偽情報を信じ、行ったまま、

これまで何度も日本政府や支援団体が里帰りを申し出たものの、

1990年代の後半に数十人が

一度きりの里帰りを実現しただけでした。

この船の後を引き継ぐように

、親族訪問の役割を担い就航したのが「万景峰号」です。

帰国者らの親族は、北朝鮮での厳しい生活を知りつつ、

物資を送り続けることしかできません。

またその帰国者を「人質」に

北朝鮮の工作員が「日本人拉致」を支援するよう、

日本にいる在日朝鮮人に働きかけてきたことも

シン・ガンス工作員の逮捕で明らかになっています。

また、日本人妻らの親族は、

この船にも乗ることができず、再会を果たせないままです。

 

50年経った今、

当時帰国者を笑顔で見送った新潟の関係者や、

子どもを残したまま、命をかけて脱北してきた

日本人妻らを取材しました。

 

 

帰国事業.JPG今も終わらず続いている悲劇・・。

それが新潟を舞台に繰り広げられたことを

改めて感じるとともに、

では今からなにができるのか・・

考えさせられました。

 

 

 

新潟あの時ロゴ HP用.JPG新潟あの時そして今⑦

 

19年前の11月、新潟市の新潟市民病院を

沢山の拍手に送られて退院した

ロシアのアレクセイ君を皆さん覚えていますか??

当時4歳だった愛くるしい少年は、

ウラジオストックの自宅で身体の40パーセントの火傷を負い、

日本で治療を受けるために

当時貨物便しかなかった

新潟とを結ぶ飛行機で急遽やってきました。

 

その数ヶ月前、サハリンで大火傷をし、

北海道で手術を受けたコンスタンチン君は

そのかわいらしい笑顔であっという間に日本中をとりこにし、

億を越える寄付金が集まりました。

そのコンスタンチン君がまだ日本で治療中の中、

新潟にもふって沸いた出来事。

これには、当時の旧ソ連の大きな事情がありました。

 

実は当時の旧ソ連は崩壊直前、

これまで分業生産され極東に送られてきていた

医薬品などが行き渡らなくなっていて、

病院で大きな手術ができない状態。

 

アレクセイ君がウラジオストックの病院に運ばれて来た時、

ちょうど市は

来年の姉妹都市提携にむけて、

新潟市と密に連絡を取り合っていた事もあり、

患者受け入れの打診電話がかかってきたのです。

新潟市は二つ返事で了承。

外務省や貨物便の輸送会社などとかけあい、

アレクセイ君の来新が実現したのでした。

 

新潟市民病院で50日を過ごしたアレクセイ君、

最期は自分の足で歩いて帰るまでに回復しました。

 

さて、その後、

新潟市とウラジオストック市は姉妹都市提携を結び、

定期便も開設。

極東からは多くの旅行客が訪れるようになりました。

そして医療交流は続いています。

とくに新潟大学では、

ウラジオストックの医師や医学生が研究のため

留学してくるようになり、

新潟の医学生も夏にウラジオストックに滞在。

お互いの医療技術を高めあい、

どちらの都市でも死亡率第2位という

胃ガンの病原菌を研究したりしています。

新潟大学医学部で研究を続けているイヴァンさんと

細菌学の山本達男教授の手引きで

24歳になったアレクセイ君に会うことができました。

 

アレクセイ①.JPG  身長187センチ、体重103キロ

立派に成長したアレクセイ君、

寒いと時々火傷の傷跡が痛むそうですが、

住宅建築の仕事に邁進していて、

お金をためて、

婚約者とともにまた新潟を訪れたいと母親とともに話してくれました。